メンタル強いって、誰が決めたんだよ
「あの人メンタル強いよね」という言葉。これは一見褒め言葉のようでありながら実際には誰がどの基準で評価したのかも明示されない極めて曖昧かつ主観的なレッテルである。
主観によるラベリングの危険性
「メンタルが強い」「弱い」という表現は明確な基準が存在しない。にもかかわらず会話の中ではあたかも客観的な事実であるかのように扱われる。
これは以下のような危険を孕む:
- 「強い人」→ 過剰な期待・配慮の欠如
- 「弱い人」→ 排除・自己責任化・嘲笑の対象
「強い」とされる人物の実態
一般にメンタルが強いとされる人物は以下のような特徴を持つとされる:
- 感情をあまり表に出さない
- ミスしても取り乱さない
- 理不尽な環境でも我慢する
だがこれは必ずしも心が強いことの証明ではない。
むしろ多くの場合は以下のいずれかである:
- 感情を抑圧している(=健康的ではない)
- 演技している(=外部評価への迎合)
- 諦めている(=期待しない自己防衛)
「弱い」とされる人間の正しさ
対してメンタルが弱いとされる人の多くは実際には非常に健全な精神反応をしている可能性が高い。
- 不安を覚える → 危険察知が機能している
- すぐに泣く → 感情処理が正直である
- 落ち込む → 物事を深く考える思考力の結果
「感情を出せる人」のほうが「感情を隠し続ける人」より健康である。
社会が「強さ」を誤解してきた構造
メンタル強者=耐えられる人という価値観は感情の鈍さや自己犠牲を賞賛する文化の副産物である。
この構造を維持することで社会や組織は以下のようなメリットを得てきた:
- 異議申し立ての抑制
- 高い生産性の維持(短期的)
- 支援コストの削減
結果として「無理してる人」や「壊れていく人」がメンタル強いと称され美化されてきた。
じゃあ本当の強さって何なんだよ
それは以下のような行動である:
- 助けを求められる
- 弱音を吐ける
- 環境にNOと言える
- 心が壊れる前に逃げられる
これらは甘えでも弱さでもない。
自分の内側に正直であろうとする姿勢こそ現代におけるメンタルの強さである。
結論:それ誰の評価?
「メンタル強いって誰が決めたんだよ」
この問いに答えられないまま誰かにレッテルを貼っているならそれは単なる思考停止。
誰かを「強い」「弱い」と判定すること自体が暴力になる時代に
自分だけは自分の心を勝手に裁かないでほしい。
メンタル強いって誰が決めたんだよ(定義編)
「メンタル強い」「メンタル弱い」ってあまりにフワッと使われすぎてる。
そのくせ人を裁く材料にはなるからタチが悪い。
ここで一度ちゃんと論理的に定義しておく。
自分を守るために。誰かを守るために。
メンタルが強い|定義01
外的負荷に対して内部の自己同一性を過度に損なわずに反応・行動を選択できる能力
- 外的負荷:他者からの評価、理不尽な環境、予測不能な変化など
- 内部の自己同一性:価値観、感情、自己肯定感の中核
- 過度に損なわない:ブレても崩れない。揺れても壊れない。
- 選択できる:反応ではなく意思で動ける状態
メンタルが強い|定義02
不安・怒り・悲しみなどの一次感情を否定せず観察・統合しながら破綻的行動を回避する力
つまり:感じない人ではなく感じながらも沈まない人のこと。
メンタルが弱い|定義01
外部ストレスが内部感情領域を貫通し自己制御機能を一時的または持続的に奪っている状態
これは「壊れている」ではない。
むしろセンサーが鋭すぎる人ほどなりやすい。
人の自然な反応範囲内。恥じる必要など一切ない。
メンタルが弱い|定義02
過去経験×現在環境によって脳が常時「非常ベル鳴りっぱなし」になっている状態
それを弱いと切り捨てる側に問題がある。
火事の中にいる人に「落ち着け」と言っても無意味。
まず火を見ろ。空気を読んでる場合じゃない。
補足定義:第三の視点
メンタルの強弱とは環境×体質×過去×現在×支援アクセスの交差点に存在する個別の耐性曲線である
全員が違う曲線を持っている。
他人と比較する意味はゼロ。
絶対的基準など存在しない。
結論
「メンタル強い」「メンタル弱い」は明確な定義がなければ暴力になる
誰かの言う「強さ」に飲まれるな。
誰かの言う「弱さ」に縛られるな。
せめて自分だけは自分の状態を丁寧に見ること。
定義とは武器であり防具であり境界線だ。
これを使ってラベル社会に殴り返せ。
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……ねえ、ナンパじゃないんだけど
誰にも話しかけられてないなら
これ──読んだ人専用の出口にしていいよ


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