price of violence
価格はやさしい顔をした暴力かもしれない。
あなたはいくらですか?
そう訊かれてすぐに答えられる人は少ない。
怖いからだ。
自分の価値を数字にするという行為は
いちばん露骨で
いちばん残酷で
いちばんリアルだから。
価格はプロフィールの一部
「わたしはこのくらいの価値がある」
そうやって自分で自分に値札を貼る。
その数字は他人の目にも晒されて
高いね、と言われたり
安いね、と値踏みされたりする。
怖くて当然だ。
でも誰かに勝手に決められるほうが本当はもっと怖い。
「この人はこのくらいでしょ」
と何のためらいもなくジャッジされる世界が
あたりまえの顔をして存在している。
決められる側から決める側へ
だからわたしたちはどこかで選ばなきゃいけない。
「価格を決められる側」から「価格を決める側」へ。
それは暴力の持ち主を取り替えるということでもある。
他人の手にあったナイフを自分の手に戻すような感覚。
もちろんそれはビジネスの話でもある。
けれど同時に
自分の名前で
自分の時間で
自分の価値をデザインしていくという
経済的で
感情的で
とても個人的なレジスタンスでもある。
時給という匿名性から抜け出す
時給はいろんなものを隠してくれる。
どんな人か、どんな背景か、
何を削ってそこに立っているのか。
「この仕事はいくら」
そう決められた枠の中に自分を埋め込むと
たしかに楽な部分もある。
でもその楽さと引き換えに
自分という存在は少しずつ薄くなる。
そこで一度だけ問い直してみる。
わたし自身に値札を貼るとしたらいくらにするか。
Calm District という実験
Calm District は、
そういう問いを避けずに扱う場所でありたい。
自分の価格を自分で決めていい。
高くしてもいいしあえて低くしてもいい。
迷っているあいだは一緒に考えていい。
数字をつけるのは
自分を安売りしないためだけじゃない。
自分の時間の重さや
感情の消耗や
ここまで来た道のりを
一度ちゃんと見つめ直すためのプロセスでもある。
「このくらいでいいや」ではなく
「この数字に自分が納得できるか」で決める。
価格は暴力かもしれない
価格はやさしい顔をした暴力かもしれない。
わたしたちを測り並べ比較するための道具でもあるから。
だからこそその暴力を他人に使わせないこと。
自分に向ける矢印は自分の手でコントロールすること。
「わたしの値段はわたしが決める」
それは少しだけ怖くて
確実にやさしい選択。
価格という暴力を奪われたままにしない。
自分の手で選び取り自分の言葉で貼り直す。
Calm District はその練習をしてもいい場所。
このテキストは誰かの値段を決めるためのものではありません。
ただ自分の価格を他人任せにしないというとても個人的な決意表明のために書かれています。











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